「籠と旅」宮城編

  • 先日、宮城の名工から連絡があった。

    どうしたのかと思い聞くと、すず竹の竹林一帯が枯れたのだと言う。

     

    宮城の「げし笊」は、日本の籠でも特殊なものであり、すず竹、山桜の樹皮、藤の繊維、杉の枝、真竹と、多種の材料を使用する。いづれも欠けると「げし笊」にはならない。

     

    竹類は、120年か60年に一度、花を咲かせ、実を付けると、竹は枯れる。それも辺り一帯が枯れ果てる。げし笊に使用する篠竹の場合、生えて1年のものは使用せず、3年目のものがちょうど良い。しかし、一度枯れた竹林から、また籠に使うための健康な竹を採取するには、5年から10年は待たなければならない。これは一大事である。

     

    連絡を受けてから間も無く、宮城へと向かった。

     

    名工の自宅に着くと、以前にもお会いしたお弟子と、いつものお茶飲み小屋で話をしていた。いつも通う山の竹が枯れてから、他の地域も方々探し回っていると言う。改めて状況を聞くなり、いつも行く山の状況を見たいとお願いした。この日はちょうど、持ち手に使用する杉の枝を採取しに行くというので、それも同行させてもらうことにした。到着早々だが、5分と経たないうちに、3人で山に向った。

     

    確かに辺り一帯のすず竹は全て枯れ果てていた。竹林が枯れた風景を見たのは初めてかもしれない。なんとも寂しいような、表現しがたい風景である。

     

    これを名工がはじめに見たときのお氣持ちは察しきれない。さぞ心痛めたであろう、様々な思いが頭を過ぎったであろう。

    げし笊を一つ拵えるのに使用するすず竹は、本数にして約50本。切り出した竹は、できるだけ早くにへぎ=ひごにして、籠を拵える。生のの竹を使うため、それほど切り貯めてはおけないので、その都度竹を切り出しに行く。通年であれば、一度に500本ほどは切り出していた。

     

    この竹林が再生して、竹が材料として使えるまでには、早くて3年先のこと、短いようで長い3年を待つ。今は、名工とお弟子が方々で探し回っている成果を願うばかりである。

     

    じつは、問題はこれだけに終わらない。むしろより大きな問題である。

    山桜の樹皮が、雨続きの影響もあり、今年は充分に採れなかったのだと言う。山桜は、採取時期が非常に限られているので、今年採れなければ、また来年となる。そして、この材料は、他の地域でも年々採れなくなっていると聞いている。こちらの方が今後の大きな問題になるかもしれない。

     

    材料は現地で採るのが最も良いが、自然環境も変わり、じきにそうも言っていられないことになるだろうか。樺細工の危機、そのようなことが頭を過ぎった。何か大きな変化が、この地球に確実に起こっているのだとも感じる。

     

    竹林の確認後、杉の枝を採りに。この材料も厳選して探していることがよくわかった。杉の枝も本来であれば、一度に100本ほど採るようであるが、近くに見せたい寺があるから案内してくれると言うので、採取は30本ほどに留め、寺の見学をすることにした。このような時間を共にできるのも嬉しい限りである。帰る途中の食堂で、昼食をご一緒した。名工とは、何度か食事をしているが、麺類を好むようで、麺を啜る姿が絵になる。写真に収めさせてもらったが、それは大切にとっておくとしよう。以前には、カラオケを歌っているところも映像に収めさせてもらっている。声も素晴らしい。何をしても絵になる方である。

     

    自宅に戻ると、買い物に出ていたおかあさんが、いつも通り作業をしていた。おとうさんが材料を調達、準備して、おかあさんが織り上げる。それを、おとうさんが組み上げて手を付ける。二人三脚の仕事である。このような状況でも、今できることを精一杯に、そして、皆さんのご様子はいつも通り明るく、それが何よりでもあった。

     

    何とかなる、そのように心から思った。

     

    帰り際、箕を手土産にいただいた。ついでに、もう一つ籠もというので、それは納品書を切ってほしいと言ったが、「遠くまでわざわざ来てくれたんだ。俺は、納品書を切らないよ。」この人柄にも惚れている次第である。

     

    そういえば、お茶飲み小屋での団欒中、おとうさんの被っている帽子を、おかあさんが「きたないから、なげろ(捨てろ)。」といつも言うのだそうだ。今度は、帽子をこちらからの手土産に持って行くとしよう。

     

    この「げし笊」、県外では肥料籠とか肥料振り籠と商品名が付けられているが、これは地域での呼び名ではなく、この地域では「げし笊」と言われていたようである。「げし」=下手物の意であろう。農具として使われていた消耗品のような道具であるから、このような名前が付けられたことは理解できる。私は、むしろ、この名前に愛着をもっているので、これからもこの笊を「げし笊」と呼び続ける。材料についても篠竹と言われていることが多いが、すず竹である。その違いは、生えている竹を見ると明らかであり、丈夫さも異なる。そして、実はこの笊、民芸品として作られている今のものは、一部昔のものと材料が異なる。その部分を昔の通りに再現したものを、今、名工にお願いしている。

     

    *2017年の記事を加筆

     

     

    その後、各地の職人を訪ねる度に竹林が枯れていると聞き続けた。私の知る限りだが、2017年前後、信州から東北にかけて、竹林が連鎖するように枯れていったようだ。今思うと「地球と人類の再生」、そのはじまりを自然が伝えてくれていたようにも感じる。

     

    記事を書いた2017年以降も、名工は材料調達のために方々を駆け回り、そして、籠を定期的に届けてくださっていた。先日もげし笊を20点ほど届けてくださった。次回は夏以降であろう。数は少なくなってはいるが、名工が元氣に籠を拵えてくださっていることが何より嬉しく、籠が売れる売れないはどうでも良いので、私はこれからもげし笊を注文し続けていく。売れる売れないとは書いたが、このように素晴らしい籠が売れない訳がない。

     

  • そうそう前述に、今のものは昔のものと材料が一部異なると書いたところだが、籠を組み立てる時に使われる紐である。今は麻紐が使われているが、昔は藤縄が使われていたのだ。私はそれを知るなり、手綯いの藤縄で再現してほしいと名工にお願いした。その昔の「げし笊」は、今我が家に保管している。納品時に籠に貼られていたメモがなんともキュートだったので、それごと。

March 20, 2021 | Tohoku