「籠と旅」九州編
光の中の籠

  • 2015年12月、家族、友人と共に、九州を南から北へと横断し、籠職人を訪ねる旅をした。

     

    ある企画をきっかけに、全国の籠、暮らしの道具としての籠を集めることになった。この機に九州で会ってみたかった籠職人全員を訪ねることにした。

     

    はじめに訪れたのは、鹿児島。

    その職人は、電話も手紙も届かない。はっきりとした場所も分からないので、行ってみるしかない。しかし、この旅でどうしても会いたい職人のひとりだったため、祈る気持ちで車を走らせた。

     

    鹿児島空港からその場所へは、案外と時間がかからなかった。その職人が住むであろう小屋の前に車を停め、玄関まで急ぎ足で歩を進めた。すると、小屋から少し距離のある場所で、大きなラジオの音が聞こえた。その瞬間、少し安堵した。職人は小屋にいると感じた。しかし、急な訪問、門前払いになることも覚悟して玄関の戸を叩いてみた。何度か呼びかけてみたが、誰も出て来ないので、戸を開けてみた。そして、ラジオの音のする部屋の戸もゆっくりと開けてみると、とても優しそうな人が中から現れた。その人こそ、真竹籠の名工、尾崎利一さんであった。

     

    自宅兼仕事場とする小屋には一人で暮らしていた。もしかすると人と話すことがあまりないのか、はじめは浮かない表情だったが次第に柔らかな笑顔をみせてくれた。崖を挟んで隣のゴルフ場から時折ボールが飛んできて、屋根に穴を開けるのだという。「ボールが飛んできて、屋根をダメにしてしまうの」家の主人からすればたいへんな事だが、優しい声のその話に何故か笑みが出てしまった。

    籠作りは、小屋の裏側にある小さな空き地で行っている。崖を背にしたその場所は、何か神聖な場に思えた。鉈を使って、いくつか竹を磨いて見せてくれたり、いろいろな話を聞かせてくれた。

    この時すでに尾崎さんは、甲状腺の癌を患っており、抗癌剤を投薬しながら暮らしていた。薬の影響で手が痺れて思うように籠が作れなくなり、それだけが悔しいと話した。 籠作りへの純粋な想い、籠作りへの愛情を垣間見た瞬間でもあった。手は不自由だが、まだ籠は現役で作っているのだという。それを聞いて早速いくつかの籠をお願いしてみたところ、快く引き受けてくださった。荷物を発送するのは出来ないとのことだったで、翌年の春にもう一度来るので籠を作っておいてもらえるようにお願いした。商売のことを考えれば高額な旅費を2度も使って来るようなことは通常はしないかもしれない。それでも良かった。この素晴らしい人の仕事をぜひ見てみたい、そして、これを機に関係を築きたかった。

    この旅に同行していた当日5歳の息子は、尾崎さんが一番好きな籠職人だと後に話した。

     

    翌年の春、約束の頃になったので再び鹿児島に向かった。今回はスケジュールに余裕がなく、尾崎さんに会うだけとした。この時も息子が同行してくれた。

    道中少し不安もあった。名の知れた名工、不便な場所であっても引き合いは多いだろうから、注文はまだ出来ていないと言われることもあろう。それ以上に元気にされているのかが心配であった。勿論、事前に確認する電話も手紙も出来ない。

    無事に尾崎さんの暮らす小屋に着いた。車から玄関まで、前回と同じような緊張感はあったが、すぐにあのラジオの音が聞こえてきた。ご無事だ。笑顔の柔らかなその人に、またお会いすることができた。尾崎さんは、私たちを見るなり、すぐに部屋の入り口にある押入れに手を伸ばした。その奥から次から次と籠が出てきた。お願いしていた籠が全て揃っていたのだ。注文とは別に、塵籠のお土産まで用意くださっていた。聞けばあれから注文に来た方も何人かいたようだが、全て断っていたと言う。突然訪ねて来て、もう一度来るか分からない者を信じ、「もう一度来るのを待ってたよ」と話してくれた。そのお気持ちがほんとうに嬉しかった。しばらく話をして、心からのお礼を伝え、また必ず来ることを約束して車を出した。優しい笑顔でずっと見送ってくれた。「来てくれて、ありがとう、ありがとう。また来てな」前と同じ笑顔だったがどこか少し寂しげに見えた。

    後になりふと気づく、次の注文をお願いしていなかった。つまり、また来た時に注文をして、その次に取りに来ることになる。まあそれでも良かろう。

     

    この時に引き取った籠は30個近くあった。宿の近くにある八百屋さんにダンボールを譲っていただき、全ての籠を梱包してから郵便局で発送するまで難儀した。飛行機の時間に間に合うかどうかと思ったが、息子が宿で朝からのタイムスケジュールを書いてくれ、梱包も一緒にしてくれたお陰で早くに全てを終えることができた。お礼として、短い時間だったが近くにある動物園に一緒に行った。彼はほんとうに頼りになると思った。

     

    さて、2016年10月、また鹿児島を訪ねることにした。あの笑顔の人に会いに。

     

    その場所に行くのは慣れたものだった。車を降りて、小屋の前に近づいていくが、いつものように大きなラジオの音が外まで聞こえてこなかった。戸も締め切られていた。以前は綺麗に刈られていた庭の草が伸びたままで、何本か外に出ている竹も朽ちていた。少し様子が違っていたが、あまり深く考えず、何かの用事か病院にでも行っているのだろうと思うことにした。手紙を戸の隙間に挟み、時間を改めてまた戻ってくることにした。「尾崎さん、前田です。またあとで戻ってきます」

    やはり何か予感したので、近所の方に聞いてご家族を捜してみたところ、小屋から遠くない場所に住んでいらっしゃった娘さんにお会いすることができた。尾崎さんに会いにきたことをお伝えすると、10日前に他界されていと聞かされた。最も聞きたくない話であった。尾崎さんは、2015年の秋に癌を患ってから、不自由でも好きな籠作りを続けていた。それから間も無くして、私たちがはじめて訪ねたのだった。そして、私と息子が籠を引き取りに伺った後であろう、春に容態が悪くなり入院されたのだった。入院中も好きな籠作りが出来ないことを悔やまれていたそうだ。本来なら夏に3度目の訪問を予定していた。届かないかもしれないが、その旨を書いた手紙も送っていた。予定が難しくなり今となってしまった。10日、たったの10日、間に合わなかった。あの笑顔の人にまた会いたかった。

    近くで花を求め、尾崎さんに供えいただけるように玄関先で渡し、とりあえず車を出した。何故か分からないが、あの小屋に向かっていた。この辺りに来ることはもうないであろう。職人との僅かな時間、その思い出が心に浮かんだ。小屋に着くと、そこで好きな籠を作り暮らした主に声を掛けた。「尾崎さん、ありがとう、ありがとう」今回の旅は一人だった。車の中でも宿でもずっと涙を流した。

     

    尾崎さんが拵える籠は、優しいお心が映るそれはそれは美しい籠。最後のお仕事となった籠は、今でもいくつか大切に保管している。時々それを眺めては、感謝の思いでいっぱいになる。そして、あの言葉とあの声を思い出す。「ボールが飛んできて、屋根をダメにしてしまうの」尾崎さんには難儀なことだったが、やはり、わたしは笑みを浮かべてしまう。尾崎さんにお会いできたこと、その籠に触れることができたことは、今では光に包まれた嬉しい思い出である。そして、尾崎さんは、好きな籠作りを今生でやり切ったのだ。

     

    *文: 2016年の日記より

2020年2月22日 | Kyushu